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2013.11.19 / 建築と住まいの話

卒業旅行で巡る日本の町並み5

17年前の卒業旅行を再現する町並み歩きの第五弾です。今日は7,8日目の行程をお送りします。

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山口県の岩国、柳井を訪ねた後、6日目の夜は山口市にある伯母夫婦の家に泊めてもらいました。小学生ぐらいまでは母の実家がある福岡で、よく一緒に集まるなどしていたのですが、中学・高校・大学に進学すると、なかなか会う機会も少なくなります。随分とご無沙汰していましたが、7日目は山口県内を周遊することにして、さらにもう1晩泊めていただきました。

7日目の最初に訪れたのは幕末から明治にかけてのメインキャスト、長州藩の本拠地「萩(はぎ)」です。歴史好きな方にとって「長州」という言葉には特別な響きがあるのではないでしょうか?

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萩の歴史は江戸時代と共にありました。戦国時代に中国地方一帯を支配していた毛利氏は、関ヶ原の役で豊臣方に付いていた戦争責任を問われ、周防・長門の二国(現在の山口県)に押し込められます。さらに三方を山に囲まれ一方が日本海に面した鄙びた地の「萩」に築城を命じられ、幕府に逆らうことなくひっそりと約260年の時が流れました。

しかし幕末になると、吉田松陰の私塾(松下村塾)から多くの志士を輩出した長州藩は、尊皇攘夷を掲げて京都で政局をリードする存在になります。紆余曲折を経て、最後は薩摩藩と協力して倒幕を果たすことになりますが、その途上、激動する情勢に備えて幕府に無断で山口に藩庁を移した時、萩は政治的な役割を終えたと言えるでしょう。

現在も交通整備が遅れている萩は、新幹線、空港、高速道路へのアクセスが良くありません。山口市内からは約1時間かけて路線バスで行くのが最短ルートになっています。

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萩は、堀内地区と平安古地区の2ヶ所が重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選ばれているだけでなく、第一期(昭和51年)に選定された7つの町並みの2つを占める「古参」なので、期待に胸を膨らませつつ、レンタサイクルで市内を巡りました。ところが土塀や漆喰塀、そして長屋門等の屋敷構えは残っているのですが、建物がほとんど残っていません。これは数日前に訪れた高梁の光景に似ています。明治を迎えて武士という身分がなくなると、日本中で生活に困窮する人が多くなり、屋敷の維持が難しかったということですが、萩の場合は、交通の便が悪いという立地も原因の一つかもしれません。

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それでも市内には高杉晋作旧宅や木戸孝允旧宅などが残っていて、幕末の騒乱を演じた長州人とその時代に思いを馳せれば、この武家町は十分に魅力的です。私も今では司馬遼太郎の長編小説が好きで、「竜馬がゆく」「世に棲む日々」「花神」等は読んでいますが、卒業旅行をした当時はまだ司馬作品を知らず、萩を十分に味わうことが出来ませんでした。そんな訳で、萩にはもう一度行ってみたいと思っています。


次に訪れたのは、瀬戸内海側の小さな町「長府(ちょうふ)」です。萩から下りの山陰本線に乗って山口県の海岸線沿いに南下すると下関があり、山陽本線に乗り換えるとすぐ東隣りに長府があります。

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長府は古代から中世にかけて政治・文化の中心地として栄え、長門国の国府として重要な町でした。関ヶ原の役で敗れた毛利氏が萩に本拠を置いた時、支藩の一つである長府藩の本拠が置かれ、毛利秀元(毛利輝元の養子)が初代藩主となって長州藩を支えた歴史があります。

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バスの時間が合わなかったので、長府駅から歩いて武家屋敷町を目指したところ、距離を読み間違えて30分以上かかってしまいました。長府は背後に小さな山を控えており、海に向かって緩やかな斜面になっています。町の各所に土塀の続く通りが残っていて、中でも海に向かう長い下り坂の「古江小路」は最大の見どころでしたが、萩と同じ武家町のため、家並みという点では物足りなさが残りました。
この日一番感動したのは、山陰本線の車窓から見えた雄大な日本海だったかもしれません。


8日目は、1輌編成の汽車にコトコト揺られて「津和野(つわの)」を訪れました。このJR山口線は非電化区間のため、電車ではなく汽車(気動車)なのですが、「SLやまぐち号」という蒸気機関車が走ることでも有名です。

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「山陰の小京都」と呼ばれる城下町・津和野の起源は鎌倉時代末期に遡り、江戸時代寛政年間に城下町としての形が完成しました。青野山と城山に挟まれた盆地を縫うように津和野川が南北に流れ、町は川に沿って細長く伸びています。
津和野駅から南に向かって歩き出すと道が大きく右にカーブし、古い商家や町家が軒を連ねる本町通りに入りますが、目を引くのは瓦屋根が赤茶色をしていることです。これは島根県西部の石見地方(旧石見国:いわみのくに)で生産される「石州瓦」で、塩を加えて1200℃以上の高い焼成温度で瓦を焼くため、凍害に強い特性を持ち、寒冷地で需要のある瓦です。三州瓦(愛知県)、淡路瓦(兵庫県)と並ぶ日本三大瓦の一つで、山陰地方の町並みにはしばしば登場します。

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町人町をそのまま歩き進むと、両側に漆喰や海鼠壁の塀が続く殿町通りに入ります。この界隈は、かつて上級武士の屋敷が集まっていた所で、家老屋敷の立派な門が残っていたり、かつて養老館と呼ばれていた藩校が民俗資料館として残っていました。土塀沿いを流れる堀には鯉が泳いでいて津和野の代名詞となっていますが、獲ることを禁じられていたという江戸時代以来、津和野の人は鯉を慈しむ気持ちが強いようです。
道は橋を渡った川向こうへと続き、その先は中・下級武士の住まいがあった所で、藩医の家であった森鴎外や西周(にしあまね)の旧宅が残されています。津和野藩は国学や蘭学が盛んで、この2人に代表されるような優れた国学者・文学者を輩出したのは、常に長州藩の脅威にさらされていた立地によるところが大きいのではないか、と司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で書いています。

また津和野と言えば、さだまさしの名曲「案山子」にも触れなければなりません。この曲の歌詞は、故郷にいる兄が都会で一人暮らしをする弟を気遣うメッセージになっているのですが、その風景描写が津和野そのものなのです。

元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る
城跡から見下ろせば蒼く細い河
橋のたもとに造り酒屋のレンガ煙突
(以下、略)

津和野城から見下ろした津和野川と津和野の町並み。時間が無かったからとはいえ、この光景を見逃してしまったのは「さだファン」として痛恨の極みです。津和野も再度、訪れなければならない町の一つです。(つづく)

岸 未希亜

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