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2016.07.22 / 建築と住まいの話

真田家の居城(信州の町3)

今年のNHK大河ドラマ「真田丸」をご覧になっていますか。草刈正雄が演じる真田昌幸に、初回からぐいぐい引き込まれましたが、小日向文世が演じる豊臣秀吉、高島政伸が演じた北条氏政も印象深いですね。

さて、アースデザインオフィスの仕事で長野に度々出張しているので、真田氏の拠点である上田と松代(まつしろ)に行って来ました。ドラマを見ると、上野(群馬県)の沼田城や岩櫃城も重要拠点ですが、信州の町シリーズ第三弾を兼ねている今回は省略です(笑)

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真田家の家紋の一つ「六文銭」は、三途の川の渡し賃として棺に入れるもので、「生きて帰らぬ」という強い意志を表していると言われます。「真田の町」をアピールする上田駅にも六文銭が描かれていました。

上田城(上田市中心部)の北東、現在は上田市に合併されていますが、以前は小県郡(ちいさがたぐん)真田町と呼ばれた地域が真田氏の郷です。武田家の家臣だった真田家は、武田家の滅亡により織田政権に組み込まれ、本能寺の変で織田信長が死ぬと徳川、上杉、北条による旧武田領争奪戦に巻き込まれますが、真田昌幸(信幸、信繁の父)が、大名不在の小県(ちいさがた)で国衆の総大将になり、智謀を駆使して諸大名と渡り合います。昌幸の謀略家ぶりはドラマでも面白く表現されていますね。

こうして1583(天正11)年、徳川家康の命を受け、上杉氏に対する徳川氏の最前線基地として上田城が築かれます。これは、千曲川領域に勢力を延ばしていた真田家にとっても必要な城で、「昌幸が家康に造らせた」と見ることもできます。

ueda2.jpg二の丸堀跡は遊歩道になっていて、市街地となった三の丸との間を隔てています

ueda3.jpg二の丸には上田市立博物館や運動場があり、一角には大河ドラマ館がオープンしていました。朝から観光客も多くいます

ueda4.jpg東虎口櫓門。天守のない上田城ではここが一番の見せ場です。南北の櫓(やぐら)は民間払い下げで遊郭に使われ、戦後に移築復元されました。城門は1994年に復元され、かつての姿になりました

ueda5.jpg現在、城の南側は芝生の広場になっていますが、当時は本丸のすぐ南まで千曲川の川幅があり、「尼ヶ淵」と呼ばれる天然の堀になっていました。下から見上げる石垣と櫓は、迫力があります

ueda6.jpgかつては眼下に千曲川が広がっていた西櫓からの眺め

上田城は天守もなく、堀と土塁で囲まれた簡素な城ですが、2度の実戦経験(第一次、第二次上田合戦)を持ち、どちらも敵を撃退するという輝かしい戦果をあげた点で、他に類をみない名城です。しかも撃退した相手が、城を造らせた徳川軍である点は喜劇的です。そのため、「関ヶ原の戦い」後に上田城は家康によって破却され、現在残っている建物や城郭は、江戸時代の藩主である仙石氏によって再建されたものです。

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また、上田は城下町であると同時に北国街道の宿場町として発展しました。道路が拡幅され、近代的な建物が多く建っている市街地の一部に、今も柳町という古い町並みが残っています。


再び歴史に話を戻します。「関ヶ原の戦い」を前に石田三成から書状を受け取った昌幸は、真田家の去就を決めるために父子3人で会議を開きました。ドラマではこれから放送される場面です。
父・昌幸と弟・信繁は姻戚関係のある三成率いる西軍に与し、兄・信幸は徳川の重臣・本多忠勝の娘を正室していることから東軍に付くことに決めます。父子、兄弟で袂を分かち、敵味方に分かれる決断でした。

この後、第二次上田合戦で徳川軍を撃退し、徳川秀忠を「関ヶ原の戦い」に遅れさせた昌幸と信繁には、上田領没収と死罪が下されますが、東軍に属した信幸と本多忠勝の助命嘆願により、高野山に蟄居させられました。昌幸は11年後に病死しますが、信繁(幸村)は大阪冬の陣・夏の陣で、真田丸を拠点に徳川家康を大いに慌てさせることは有名です。

その後、信之(信幸から改名)は上田領・沼田領を合わせて9万5000石の大名となり、真田家を存続させますが、1622(元和8)年、同じ信濃の松代藩13万石(後年、沼田領3万石が独立)に移封されました。これは真田家に苦しめられた秀忠の嫌がらせとも言われ、上田の地を追われることには信之も不服だったそうです。しかし松代藩は信之以来、明治維新まで約250年間を、真田氏10代が藩主となって治めました。

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松代城は元の名を海津城と呼び、信濃侵攻を進める武田信玄が上杉勢に対する拠点として築かれました。かの有名な「川中島の戦い」は4度あったのですが、その第3回と第4回の間に造られた城です。2004年に復元された太鼓門、堀、石垣などがあるものの、現在の松代城には見るべきものがありません。

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城跡よりも藩校であった文武学校の方が有名で、1855(安政2)年に開校した藩校が、完全な形で現在に残っている稀有な例だそうです。他にも城下には真田家の私邸として使われていた真田邸、家臣の住宅などが保存されていて、真田家10万石の城下町として、今日も静かな佇まいを見せています。

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また幕末には、兵学者として幕府の要職に就く傍ら、思想家として吉田松陰らに影響を与えた佐久間象山を輩出しました。象山の生家跡地には、知識と学問の神様として象山神社が建てられ、象山が居住し、高杉晋作や多くの志士と議論・密談を重ねたという高義亭も残されています。

調べていると、松代と藤沢に縁があることも分かりました。昭和初期、松代藩の旧藩邸が藤沢市片瀬の龍口寺に移築され、現在も大書院として使われているのです。信州に行かなくても、すぐ近くで真田家の歴史に触れられるのは驚きですね。

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しかし今年はぜひ、真田家の足跡を訪ねてみてください。信州は今、空前の「真田丸」ブームです。

岸 未希亜

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