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2013.08.31 / 建築と住まいの話

卒業旅行で巡る日本の町並み4

17年前の卒業旅行を再現する町並み歩きの第四弾です。今日は5,6日目の行程をお送りします。
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5日目の朝は少し倉敷の町を散策した後、JR山陽本線の福山で下車してバスに乗り換え、終点の港町へ向かいました。それが、瀬戸内海に突き出た岬の突端にある小さな港町「鞆の浦(とものうら)」です。

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鞆の浦は瀬戸内海のちょうど真ん中に位置し、沖合に潮の境目があるため、古来より潮待ちの港として栄えました。遣唐使、日宋貿易(平氏)、日明貿易(秀吉)の際にも中継地となっており、瀬戸内海を行き来する船は必ずここで潮待ちをしたと言われています。特に江戸時代には北回船の寄港地として大いに賑わい、多くの富裕な舟問屋が誕生した鞆の浦は、栄華を極めました。

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山の斜面がそのまま海に落ちたような地形の鞆の浦だからこそ、水深が深く、天然の良港たり得た訳ですが、家や土蔵が海岸沿いの狭い平地に身を寄せ合うように密集しています。道も細く迷路のようになっていますが、それが返って歴史情緒を感じさせました。保命酒(漢方薬の入った酒)の醸造元だった中村家には、表玄関に一対の高張提灯を下げる設えがあります。これは本陣だったことの証で、幕末に京都を追われて長州へ逃れた三条実美らの一行(七卿落ち)も潮待ちの宿としたのだそうです。
港の最奥部には、江戸時代に造られた石段の船着き場があります。これは潮の満ち干による水面の上下に拘らず、人の昇降や荷役ができる「雁木」と呼ばれるもので、その突端に石造りの灯台「常夜燈」が立っています。

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この辺りの風景は時間が止まったような静けさを湛えていて、かつて繁栄したとは信じられないぐらいです。宮崎駿監督がこの風景に惚れ込み、「崖の上のポニョ」の舞台にしたという話も頷けます。

次に訪れたのは「尾道(おのみち)」です。尾道は文学の町、映画の町として知られており、一般的にも有名な観光地になっています。

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尾道にゆかりの作家である林芙美子は尾道を舞台にした「放浪記」、尾道に旧宅のある志賀直哉は「暗夜行路」を書いています。映画では何と言っても小津安二郎監督の「東京物語」が有名です。また尾道を故郷とする大林宣彦監督が、尾道三部作と言われる映画「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の舞台にしたことで、一躍全国に知られるようになりました。

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中国山地が瀬戸内海に突っ込んだような地形の尾道は、平地がほとんどなく、山肌に住宅や寺院が密集しています。これまで見て来たような古い町並みとは少し違いますが、車が通れない狭い路地や石畳の階段に沿って家が建ち並ぶ「坂の街」で、迷路を歩くようなわくわく感がありました。町の背後に迫る千光寺山に登ると、眼下に尾道水道と呼ばれる海峡が対岸の向島との間に横たわり、悠然と流れる大河のように見えます。
今この写真が手元に残っていないのが唯一の心残りです。

6日目はまず、重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選ばれている「竹原(たけはら)」を訪れました。

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町並みの残る地区は現在、海から少し離れた場所にありますが、かつては荘園の運上物を海上輸送するための港町でした。しかし川の沖積によって急速に海が埋め立てられ、港としての機能が失われていったため、広島藩はこの浅瀬を水田にする意図で干拓しました。ところが、塩分が稲の栽培に適さないということで塩田の開発に切り替え、備後一の塩田をつくり上げたのです。竹原はこの製塩業で豊かになり、豪商の町家が軒を連ねる「製塩町」として、今日もその姿を残しています。

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建物は本瓦葺きの入母屋屋根、壁を漆喰で塗り回した塗り屋造り、1階は出格子のある重厚な造りが多く、歩いていて痺れました(笑)特に鼠色の漆喰壁が並んだ竹鶴酒造の建物は、今も強く印象に残っています。

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また上下に竪格子、中間に横格子を組み合わせた珍しい格子が見られました。これは「竹原格子」と呼ばれ、中から外を見る時によく見えるよう、目の高さだけを横格子にしたもの。現在の住宅でも活かせそうです。

次に訪れたのは「岩国(いわくに)」です。ここは古い町並みではなく、錦帯橋(きんたいきょう)を見るために立ち寄りました。

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この木造アーチ橋を知らない人はいないと思いますが、簡単に解説します。
錦帯橋は川幅約200mの錦川に4つの橋脚を構え、5つの木造の橋が連なる構造で、中央3連は迫持式(せりもちしき)と呼ばれるアーチ構造、両端の2つは反りのある桁橋構造になっています。継手や仕口といった大工技術を駆使し、順に桁が迫り出すことで約35mの距離を飛ばしている姿は圧巻で、橋を下から見上げるとその凄さを実感できます。
橋の創建は1673年。翌年の洪水で流出したため橋脚を強化して再建したところ、昭和25年に台風で流出するまでの約270年間、定期的な架け替えによってその姿をとどめました。桁橋は約40年ごと、アーチ橋は約20年ごとに架け替えられたという記録が残っていますが、架け替えは風雨に曝されて材が傷むことに加え、大工技術の伝承という意味合いも大きかったようです。

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現在の錦帯橋は、1953年に再建された橋を50年ぶりに架け替えたもので、川の水量が少ない晩秋から早春の時期を選んで2001年から4年がかりで施工されました。この写真に写っている橋は、もうこの世には存在しないということですね。

6日目の最後はこれまた重伝建地区に選ばれている「柳井(やない)」です。

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中世・近世を通じて瀬戸内海の海運を背景に商業都市として繁栄した柳井ですが、ここも現在は海から離れた町の中に、ひっそりと残っています。その規模は全国にある重伝建地区でも最小クラスで、歩くだけなら数分で通り抜けられます。しかし、本瓦葺き塗り屋造りの白く重厚な町屋が軒を連ねている様は圧巻です。特に入母屋屋根が連続したノコギリ状のスカイラインが印象的で、通りに面した差し掛け屋根が一直線に連続する姿も見事です。

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ここ柳井は古くは楊井(やない)と呼ばれ、平安時代に荘園が拓かれて港町として発展し、柳井津と呼ばれた中世には船着き場を背後にもつ問屋町となりました。ところが柳井川が上流から運んだ土砂の堆積で港町としての価値が下がってしまい、近世には川の南側を干拓して町を広げ、新しい町(新市と呼ぶ)をつくったそうです。新市が昔の面影を残していないのに対し、古市町・金屋町という最も古い地区には中世商業都市の地割が残り、1768年の大火後に建てられた町屋の数々が、往時の姿を偲ばせています。(つづく)

岸 未希亜

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