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2014.06.10 / 建築と住まいの話

卒業旅行で巡る日本の町並み7

2月の第六弾以来、かなり間が空いてしまいましたが、18年前の卒業旅行を再現する町並み歩きの第七弾です。今日は10,11日目の行程をお送りします。
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10日目の午前に松江を散策した後、午後は鳥取県に入りました。
鳥取県は旧国名の「因幡(いなば)」と「伯耆(ほうき)」が一つになったため、県庁所在地の鳥取市がある東部(旧因幡)と、米子市、境港市のある西部(旧伯耆)では方言が大きく異なるそうです。
また日本海側気候のため冬は曇りや雨、雪の日が多く、鳥取市や山間部は豪雪地帯といえます。47都道府県で人口が最も少ない県ということは、覚えておくとクイズ等で役に立つかもしれません。
西端の境港市は漫画家・水木しげるの故郷で、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」がヒットしたことで脚光を浴びましたが、18年前、自分は米子市に立ち寄りました。

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米子に来た目的は米子公会堂でした。米子公会堂はグランドピアノをイメージした斬新な形をしていますが、20世紀の日本を代表する建築家・村野藤吾が設計した建物です。
大阪を拠点にした村野は関西に多くの作品を残していますが、神奈川県に住む私たちの目にも触れているであろう作品として広島世界平和記念聖堂、日生劇場、読売会館(現ビックカメラ有楽町店)、横浜市役所、箱根プリンスホテルなど枚挙に暇がありません。1984年に93歳で亡くなる前日まで仕事を続けていたとされる、伝説的な建築家です。

それから汽車で移動して「倉吉(くらよし)」を訪れました。山陰本線の米子~城崎は非電化区間のため、電車ではなく汽車(ディーゼル機関車)が走っています

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鳥取県の中部、旧伯耆国に属した倉吉は、戦国時代の城下町が原型となり、当時から刀鍛冶で知られた町でした。しかし刀が必要なくなった江戸時代に、脱穀道具の「稲扱千歯(いねこきせんば)」を造り始めます。刈り取った稲をしごく刃先に刀鍛冶の技が活かされ、その切れ味の良さから全国的に売れるようになって商業活動が活発になり、商家町として大いに発展しました。

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倉吉を代表する景観は、用水路である玉川沿いに並ぶ土蔵群ですが、これは舟で鉄製品を運んだ物資輸送の痕跡で、町の裏側にあたります。

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表側は本町通りと呼ばれるメインストリートで、その両側には赤い石州瓦を載せた平入りの商家が並んでいました。使われている材料が立派だったり、格子や軒を支える腕木や力板などの造りが繊細で、かつての豊かさが偲ばれます。当時は保存の程度に差があったり、途中からアーケードに覆われていたりして町並みとしての魅力に欠けていましたが、自分が訪れた約2年半後の平成10年に重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選ばれました。平成8年に保存条例が制定されるなど、ちょうど保存地区選定に向けて町が動き出している時期だったと思います。

この本町通りのすぐ南側にある倉吉市庁舎は、日本を代表する建築家・丹下健三の設計で1956(昭和31)年に竣工した建物です。十分なメンテナンスがされた香川県庁舎などと比べると、痛々しい感じは拭いきれませんが、コンクリート打放し仕上げのモダニズム建築として一見の価値があります。

11日目の朝、倉吉の商店街に市が出ていたので散策していたところ、危うく駅へ向かうバスに乗り遅れそうになり冷や汗をかきました。

さて、山陰本線で北近畿方面に向かうと余部鉄橋(あまるべてっきょう)を渡ります。現在はコンクリート製の橋に架け替えられていて鉄橋は現存しませんが、初代の余部鉄橋(明治45年竣工)は、数多くの橋脚で橋桁を受ける形式のトレッスル橋でした。長大なスパンが取れないため、河川や海の上に架けるのには不向きですが、全長約310mに渡って高さ約41mにそびえ立つ橋脚は迫力満点です。

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98年間も使用されてきた初代の鉄橋ですが、1986年には列車転落により死者6人を出す痛ましい事故が起きました。鉄橋に差しかかった回送列車が日本海からの突風にあおられて転落し、水産加工工場と民家を直撃したのです。風速計の故障により列車停止の判断ミスが起きたことが原因とされています。

自分は事故のことは詳しく知らず、単純に余部鉄橋を渡るのを楽しみにしていたのですが、餘部(あまるべ)駅を出た途端に鉄橋に差し掛かることを知らなかったため、写真を撮るタイミングを逸してしまいました。
車輪とレールが固定されているジェットコースターと違って、落ちるかもしれない恐怖感で手に汗を握り、それどころではなかったのかもしれません。例えて言えば、吊り橋を歩くような感覚だったと記憶しています。

兵庫県北部、日本海に面する城崎(きのさき)は、1300年の歴史を持つ城崎温泉で知られる温泉街です。江戸時代には関西各地からの湯治客が増え、幕末・明治期には宿屋が60軒を超え、明治42年に山陰本線の城崎駅が開設されると入湯客は急増したそうです。

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現在はほとんどの旅館に内湯が設けられているものの、古来より外湯主義を貫く城崎温泉は、七湯ある外湯めぐりが主体の温泉です。また、城崎では浴衣を着て下駄を履くのが正装と言われ、観光客が浴衣姿で外湯めぐりや土産物屋めぐりをする光景が見られるなど、古い温泉地の情緒を残しています。

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町並みの特徴は木造3階建てが多いことです。山に挟まれた谷間の町に平地は少なく、多くの湯治客を泊めるために3階建てが標準になったのでしょう。城崎と同じように3階建ての旅館が建ち並ぶ山形県の銀山温泉も、やはり山間の川沿いに造られた温泉街です。

ところで皆さんは、元プロ野球選手の野茂英雄が代表を務める「NOMOベースボールクラブ」をご存知ですか?社会人野球チームの廃部が相次ぐなか、野球を志す若者に活動の場を提供するために創られたクラブチームで、数名のプロ野球選手を輩出しています。
当初このクラブは新日鉄堺のあった大阪府堺市を拠点に活動していましたが、現在は拠点を城崎に移し、選手は旅館で働きながら野球を続けているのです。

続いて城崎から山陰本線で豊岡に移動し、バスで出石(いずし)へと向かいました。出石は約600年前、山名氏が室町幕府から但馬地方の守護に命じられた時から開けた古い歴史があり、戦国時代と江戸時代を通じて発展した山間の城下町です。

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山を背にした出石城跡の前には、古い町並みが広がっています。武家屋敷や商家が数多く残っていて見応えがありましたが、当時は中途半端に改造された家があったりして、まだ町並み保存の整備が不十分でした。しかし11年後の平成19年に重伝建地区に選ばれたということで、ここも倉吉と同じように私が「先駆け」に成功した町並みの一つです(笑)。

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町並みのシンボルは高さ約16mの「辰鼓櫓(しんころう)」です。江戸時代、辰の刻(午前8時)に太鼓を打って登城する藩士に時を知らせたものだそうで、現在は櫓上部に時計が設置され、時計塔として親しまれています。
またここは「出石そば」も有名です。お国替えで信州上田の仙石氏が藩主になった時、信州から来たそば職人の技法が加わって誕生したとのことで、現在では約50軒もの蕎麦屋が建ち並んでいます。大阪・神戸方面からのアクセスもよいため、年間100万人の観光客が訪れるそうです。

この他、出石には名建築も残っています。先ずは建築家・宮脇檀(みやわきまゆみ)の作品群で、出石町役場、出石中学校、出石町立伊藤美術館、斉藤隆夫記念館があります。そして「いるか設計集団」の設計した出石町立弘道小学校は、当時とても好きな建築でした。

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学校建築を鉄筋コンクリートでなく木造にしたことも先駆的ですが、機能的な四角い形にはせず、町並みを連想せるような群体にしている点、山陰地方の家に使われている石州瓦を用いて風土に溶け込ませている点など、学生時代に共感することばかりでした。

出石から近い丹波篠山とか丹後半島の伊根とか、寄りたい所はいっぱいあったのですが、スケジュールの関係でこの日は大阪まで戻って9日ぶりに祖母の家に泊まり、翌日は祖母とゆっくり過ごしました。
ちなみに篠山(城下町・農村:兵庫県)も伊根(漁村:京都府)も重伝建地区で古い町並みがよく残っていますが、どちらも社会人になってから訪れました。

いよいよ次回が最終回です。(つづく)

岸 未希亜

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